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夫君や義妹たちがこどものころのはなし。
義母さんに、自分の子供たちのときはどうだったのか?と聞いてみると、ほとんど覚えてない。という。
「忙しすぎた」と言って、大変だった話を長々とするのだが、こどもたちのことは「見ている暇がなかった」そうで、あまり覚えてはいないみたい。
義母さんの話を聞いてるとほんとにすごいと思う。
わたしは絶対できない。
まずフルタイムで働く体力がない。
三人も子育てする気力もない。
ないないづくし。
それに比べて義母さんは朝七時半に家を出て、夕方六時に帰宅。
そのほか子供たちの食事、弁当、家事その他をこなしてきたのだから、本当に頭のさがる思いだ。
ところが、親の苦労は見えないもので、夫君の話では「ほったらかしだった」という。夫君は勉強ができなくて、問題集を買ってきて渡されたけど、一ページもやらずに表紙に落書きしていたらしい。
もしかしたら面白おかしくするために盛った話なのかもしれないけど、「勉強を見てもらった」記憶はないらしい。
むかしはそんなもんだったんじゃないかなぁ??
わたしも勉強を見てもらった記憶もないし、「勉強しろ」と言われた記憶もない。
父には言われた気がするけど、母はなにも言わなかった。
うちの母もそれなりに忙しかったと思うけど、「わたしは勉強を教えてあげられないから」と言っていた。
いずれにしても、昔の親たちはたいそう忙しそうだ。
一方、わたしはというと。
専業主婦歴が長かったので、子供たちの勉強をみるのはわたしの仕事。
外で働く気力がない分、家を充実させなきゃならない、と強迫観念があった。
家事も子育ても「楽しく、頑張らなきゃならない」と気を張っていたような気がする。
でも、そうやって気を張っているうちは、なにもできなくて落ち込むことになるのだ。
それがだんだんと、「できないなら、やらなくてもいい」くらいに気を抜き始めたら、夫君を責めることも少なくなって、自分も楽になった。
「ふとんで寝てもらうことを強制するのをやめる」とか、
「料理がつくれないときは、カップラーメンでもゆるす」とか。
子育てが一番大変だった時は、「水曜日はカレーの日」と決めてもらった。
決まっていれば文句の出ようはずもなく、水曜日だけはメニューが決まっているので、悩む必要も、手抜きだと落ち込む必要もなくなった。
いつしか「水曜日はカレーの日」はなくなっていたけど、この「カレーの日」にはずいぶん助けられた気がする。
義母さんのこころにわだかまっているもの
さて、こんな私の手抜き日記を書いたのには、義母さんの心にわだかまっているものが何となくわかってきた気がするからだ。
子育て当時の義母さんは、忙しいなかでも、体調を崩さないよう工夫をし、家事に仕事にこなしてきたのだ。
それなら、もっと自分を褒めてあげるべきではないか?と言ってみるのだけど、
「んー、よくやったと思う!思い出すだけで背中がゾクゾクする」らしい。
そして、「もうこの話はいい!」と切ってしまう。
なーんか、このあたりにわだかまりがあるっぽく感じるんだよね。
そうやって、過去の自分をみとめないから、いつまでもこだわってて、すでに使うことかできないものですら、捨てる決心がつかないんじゃないかなぁ?
思い出したくないのか、子供たちにかかわって来なかったことに対する罪悪感があるのか、このあたりに目を向けないと、いつまでたっても健康診断をし続けて、目の前のもの(ゴミ)から目を逸らしてしまう気もする。
ついでに今日は子宮がん検診を受けてきたらしい。
すごいね。今年六軒目の病院かな。
ここまでくると、次はなにが出るのか気になってくる。
本人は「これで最後、もう疲れた。もういい!」とか言っているけど、次はインフルエンザ予防接種のことで病院に行くでしょう。そしてまた、新しい検診を探してくるとおもう。
家でボケるのをひたすら待っているかのような生活を送るよりは、すこしでも外に出た方がいいから止めたりしないけど、できれば楽しむ方向のものを選んでほしいな。
それに、平行移動してきた物置のものたちのおかげで、目がかゆい。
アレルギーなんですよ、おそらく。自分の家ではこんなことなかっただけど。おおよそ20年前のほこりはこんなに凶悪なんでしょうか?
早々に撤去していただきたい。
洗濯ものすら片付けられないよ!!
どうもこの家のほこりとは相性が良くないみたい。
めがかゆいよー( ;∀;)