はりねずみはころがる。

子育てや教養、その他日々の気づきを書いています。

DEATHカフェが流行っているらしいです。うちの毎日の会話もどこか死生観がただよう。

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今朝のラジオで

先日、最終回を迎えたとあるドラマでは、「お・し・ま・い・DEATH!!」がバズっていたけど、それとはまったく関係のない「DEATHカフェがいろんなところで開催されていて、オンラインでも開催された。」 という話題を紹介していました。

 

もともとは「死」にゆかりのあるお寺などで開かれていたそうですが、今回のコロナの流行でもっとカジュアルに話そう、というスタンスで開催されているそうです。

 

生きていくうえで切っても切れるわけない「死」についてですが、

シニアが身近にいると、どちらかというと話題にしづらいものがあります。

 

人生半ばを過ぎて、「お迎えがいついらっしゃるのか」と本人が戦々恐々としている場合はなおさら、家族や身近なものから話題として振るのは難しくなってきます。

 

かくいううちの義母さんも、いい歳なわけで、還暦+ひとまわりもすると、身近に「死」を感じていて、どうしても恐怖が勝るみたいです。

 

 

 

 今朝の会話

三〇キロのお米をどこで買うか、という議論。

手間を取るか、お金をとるか。わたしの学生時代からの命題です。

 

義母さん「お金がないんだから、少しでも安いところで買いなさい」

わたし「手間がかかるんだから、夫君の負担にならないようにした方がいいと思います。それで怪我でもしたら元子もないですし。」

 

ネットで買って配達してもらうか、産直とかで買って自力で持ち帰るか、という議論。

 

義母さん「三〇キロくらい、なんてことないでしょ。そんなんじゃ百まで生きられないわよ!」

わたし「百まで生きる予定ないです。頑張る気もありません」

 

長生きが美徳だった世代からすれば、わたしの考え方は理解できないかも。

筋トレしたい息子はよろこんで三〇キロ持ってくれるかもしれませんが、夫君は、文句言いそうです。

あまり値段に差がなければ楽なほうを選ぶ気がします。

 

義母さんは物やお金には優しいけど、ひとに厳しいんですよね。

団塊の世代だからかな。あの時代はひとより物の方が希少価値があったんだろうと思う。でも、いまは物より人のほうに価値がある。

 

だから、お金や物も大事だけど、ひとはもっと大事なんじゃないかな。

という気持ちが、いまいち義母さんには通じないみたい。

 

 

 

どう生きていきたいか。

「死」を考えるときって、同時に「生きる」を考えることになります。

どんなふうに生きていきたいのか、やりたことはなんなのか?

 

いくら病気や交通事故のリスクがあるからといって、

どこへも出かけない、自分のしたいこともしないのでは、別のリスクを生むことになるような気がします。

 

義母さん本人も言っていたけど、「家にこもってばかりいると、気持ちがうつうつとしてくる」。

特に義母さんは、家の中に楽しみを見いだせていないひとみたいなので、出かけることが大事だと思う。

無理に出かけるのではなく、自分の楽しみのために出かけたらいいと思う。

 

「ずっとやりたかったことをやりなさい」ですよ。

 

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 義母さんには、ちょくちょく「やりたかったことをやった方がいいですよ」と言い続けいます。

七〇代からジム通いをはじめ、ギネス記録を打ち立てるまでになったシニアの話とか、ピアノがあるんだから、ピアノを弾けるようにするとか、スマホを使えるようにするとか、といろいろ言ってみるのですが、当然のように「やれればいいんだけどね」と返ってくる。

 

家にこれだけ物をため込める人だから、フットワークなんてものが備わっていないことは一目瞭然。

ひとの心配より、自分がどう生きていきたいか、を考えて、「やりたい」と思ったことに挑戦していきたい、と改めて思ったのでした。

 

 

 

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